10/31/2020

町の歴史に想いを馳せる

 10月31日(土)晴れ。

最近、町内会役員のLINEネットで”我が町の歴史”が何かと話題に上っている。
早速、メンバーのホリエさんが郷土史の頒布目録(↓)を入手され連絡をいただいた。この書(なるみ叢書)は、その昔、郷土史研究家諸氏の執筆により編纂されたもので、今でも頒布されていると云う嬉しい情報も併せて頂戴した。
目録の内、第2巻の”鳴海宿信高騒動記録”は若い頃に読み、強い印象を受けた記憶があるもの。ネット検索では、古本で1万5千円以上だったので諦めていた。何と10分の一の価格で今も新品入手が可能とは・・たいへん有難いと思う。
この機会に、郷土の歴史に想いを寄せ我が町の今昔を再認識したいと思う次第。
鳴海の歴史は、遥か縄文~弥生時代に遡り、日本武尊の神話から古墳時代へと。歴史は更に下り、桶狭間の戦国時代を経て江戸期には東海道40番目の宿場として栄えた。

<<成海神社御船渡神事>>
「奈留美らを 見やれば遠し火高地(大高)に この夕汐に渡らへむかも」紀元3世紀、東方征伐の役から帰還した尊が、奈留美浦(今の名鉄鳴海駅辺りの海岸)で(奥方の待つ)対岸の火高地(大高)を望んで詠んだと伝えられる。
成海神社では、その由緒に因んだ神事が今も綿々と受け継がれ斎行されている。画像は昭和56年の御船渡神輿巡幸、今から40年前のもの。
今年の御船渡神事は、コロナ禍のため簡素化にて斎行された。右は、船に見立てて例年の祭事で扇川に流される銘板。正目の檜で高さは4尺ほど。 
鳴海は先史時代から近世まで、歴史や由緒がいっぱい詰まった町と思う。まだまだ知らないこの町を、この際、いろいろ調べてみようと思う。「探索とは歩くことなり」ならば、脚の強化とボケ防止。「一石二鳥」であること間違いなし、の筈。

<<善照寺砦・砦の松>>
この際、触りとして砦の松を掲載しておこうと思う。
ちょっと調べたら「昭和37年に伐採」とあり、この写真は60年以上前に撮られたものになる。伐採の理由は落雷による焼死で、廃棄するには忍び難く、当時、棗(なつめ)が製作された。その一つが、我が家のお宝にもなっている。(写真右)
伐採時の胴回りは4メートルだったとされ、桶狭間の合戦では信長も見上げていたはず・・と、勝手に妄想した。
「♪・・砦の松に澄む月の 光にこころ磨きなむ~」と、鳴海小学校校歌にも詠まれた由緒ある松である。
<<片葉の蘆伝説>>
旧東海道沿いで、山下交差点の手前100m辺りに「片葉の蘆」の伝説話しがある。蘆は葦と同じもので、子供の頃に皆は「片葉の葦(よし)」と、呼んでいた。
(↑)田んぼの片隅に生えていた葦塚の図。記憶を頼りに描いたのは随分前のこと。この図を商工会HPに提供をしたら、何時の間にか掲載されていた。
通常、葦の葉は対生で、稀に片側のみの変異があるようだ。調べてみたら、奇跡の現象のように各地にも伝説がいろいろ残っている。

10/24/2020

桶狭間の戦い

 10月24日(土)晴れ。

我が町はその昔、戦場(いくさば)だった。

とは云っても、西暦1560年のこと。今から460年前ながら、子供のころからいろいろ云い伝えを聞いてきたので、遠い昔のことと思えないほど身近な出来事のように感じる。今川方の猛将、岡部元信が守る鳴海城や信長軍が集結した善照寺砦は近所のガキ大将の格好の遊び場だった。

その鳴海城の眼下は、今は伊勢湾と呼ばれている鳴海潟の波打ち際。たった460年前の名鉄鳴海駅は海の中だったのだ。(注)下の布陣図は位置関係に少々錯誤あり。

この地図は現在の公共路線図と合わせてあり、詳細が分かり易い。今の「扇川」は吉川英治の太閤記でも「黒末川」になっている。
2千500の兵力で、3万とも云われる今川軍を破った信長。奇跡の勝利と云われるけど、勝つべきして勝った戦だったとも。それは現代にも通じる「情報戦の優劣」による当然の結果だった。今川本陣攻撃には、上図の様に迂回奇襲説と正面突破説があり、現在は後者が有力とされている。善照寺砦から桶狭間(前方の小高い丘)を望む。(↓)
天気上々につき、徒歩にて散髪へ行ってきた。その帰路、久しぶりに砦に立寄った。史跡掲示板にキンモクセイの大木が被さっていた。この時季限定、いい匂いを楽しませてもらった。
読み易いように拡大画像も・・。
今は公園として整備されている。
しかし子供の頃は、小学校校歌に詠みこまれた「砦の松」が一本だけ聳え、春には桜の花盛り。夏には、その桜で蝉捕りが定番の遊びであった。

昭和30年頃、雷に打たれて枯れてしまった初代”砦の松”に代わって植えられた黒松の脇に、鳴海絞り開祖の碑が鎮座している。絞りはその昔、東海道を行交う旅人の鳴海宿土産として人気を博したと云う。
その絞りを伝えこの地に広めたのが、豊後国(大分県)の城主・竹中備中守の藩医・三浦玄忠の奥方。今でも「三浦絞り」として、その名が残されている。
鳴海城と善照寺砦の間に位置するのが、母校の「鳴海小学校=緑区矢切」である。
その砦と城の距離は凡そ4~5百メートル。織田方の砦と今川方の城から、互いに弓を引き合ったそうな・・?されど、飛距離が足らずに互いの矢が途中で落ちてしまったそうな・・?矢が尽きた(切れた)と云うことで、そこは「矢切」と云う地名になったそうな・・!?(と云う話があるけど、事実かどうかよく分かりません)
注1)
=鳴海城跡は海抜14m=
そこから西方を望むと、電車で18分ほどの名古屋駅ビル群が見える。城跡は子供の頃の遊び場で、草むらに古井戸があったり瓦の破片も転がっていた。暗くなる前に帰らないと、サムライの幽霊がでるよ~っと、親から脅されていた。
注2)
=昔の鳴海小学校校歌=
「♪ああ古(いにしえ)のなるみ潟 いまは文化の波寄する 砦の松に澄む月の 光にこころ磨きなむ」
これは70年前に歌っていたもの。今は変わったみたいなので、ネット検索したけど見つからなかった。